2008/10/17

コーディノロジスト


以下,河本英夫氏の宿命反転に関する用語解説.
宿命反転 Reversible Destiny

不可能と思われているものを留保し,留保された位置から,可能性の広がりを考察すること.たとえばこれまで人間は,必ず死ぬものだと思われてきており,また事実死んできたが,ひょっとして人間は死なないのだということまで予定に入れることができれば,これまでの通念とは異なる範囲で,可能性の幅,あるいは選択肢を考えざるをえなくなる.可能性をできるだけ広く取るために設定される,方向付けのための原理である.かりに人間の経験の可能性に向けて,無限の試みが続けば,すでに宿命反転は現実化の段階に入っている.

2008/09/24

三渓園



三渓園は横浜市中区本牧(ほんもく)にある庭園.

三渓園は,横浜トリエンナーレ2008の会場の一つであり,その展示を見ることが今回訪れた本来の目的だった.他の会場は二日間見て回り,最後に三渓園を訪れた.この三渓園は他の会場から遠く離れ,桜木町からバスで25分以上かかる場所にあり,行くのには少し難儀だった.ただ,本来ならば入場料500円がかかるところを,トリエンナーレのチケットで入場することができたことが少しオトクだった.

正直に言って僕は現代アートに造詣が深いわけではないし,今回のトリエンナーレを見て,現代アートにはかなり懐疑的な感想を持っていたので,三渓園には「庭園を楽しむことができて,ついでに作品も見られればいいや」という心持ちで臨んだ.

トリエンナーレの展示はそこそこに拝見して(というかほぼ素通りして),三渓園の建物や景観をゆっくりと見て回った.建物の多くが鎌倉や京都からの移築で,建立が室町時代のものもあり,「古都」の趣を感じた.ただ単純に移築したという感じはしなくて,景観と建物が非常にうまく調和していた.

この庭園を公開したのは原三渓(1868-1939)という横浜の実業家.古美術の蒐集家だったようだが,ただの金持ちというわけでは全くなく,自身も書画に親しんだようで,展示室には彼の作品も公開されていた.さらに当時の画家を庇護して育成に努めるなど,パトロン的な存在だったようだ.関東大震災の際には横浜の復興のために私財を投じた徳の高い人でもあった.

トリエンナーレで最もリスペクトに値するアーティストは実は原三渓だったのかもしれないな,というのも皮肉な話だ.

2008/09/14

ミステリとパズル


ソシオメディア株式会社主催のDESIGN IT!フォーラム(副題:インタラクションデザインの現在と未来 )に参加する機会があった.

adaptive path社のインタラクションデザイナーであるダン・サファー氏が講演者として招かれ,いくつかの興味深い講演を行った.

その講演の中で述べたことに次のような一説がある.
「良いデザインプロセスと悪いデザインプロセスの違いを理解するために,ミステリとパズルというメタファーを用いることができる.パズルには解法が一つしかない.パズルが解けないのは,パズルのピースが足りないと考える. ミステリは解法が複数ある.ミステリが解けないのは,情報が整理されていない状態であると考える.デザインはミステリを解くかのように行わなくてはならない」
この一説がどこかからの引用なのか,それともダン・サファー氏の自説なのかは定かではないが,とても記憶に残る言い回しだった.

ダン・サファー氏は難解なミステリを解くことに成功した一つの例として,最も有名なアプリケーションの一つである「Microsoft Word」を取り上げていた.

1989年に出荷した「Word 1.0」では,コマンド数は100個,ツールバーの数は2本というシンプルなものであったが,ユーザの要求によって機能追加が進み,Word 2003 ではコマンド数1500個,ツールバーの数31本という数にまで膨れ上がった.機能が追加されていっても,ユーザインターフェースがほとんど変更されなかったために,ユーザは利用したい機能に辿り着くまでにいくつものツールバーを表示させ,プルダウンから探さなければならない羽目になった.

当然のことながら次期バージョンのUIチームは,このまま機能追加を続けていけば更に事態を悪化させることに気づいていた.そのためUIチームは,ユーザインターフェースの大幅な見直しが必要であることを上層部に掛け合い,承認させた.

彼らUIチームの仕事が結実したものとして,従来のメニューを廃し,リボンインターフェースを採用したことが最も大きいものだろう.そのほかにも「ライブ・プレビュー機能」,「コンテキスト・タブ」などがある.クラシックモード(旧バージョンのユーザインターフェースに切り替えるモード)の切り捨ても戦略的な英断だった.

彼らがそのような過去を見直し,新しいユーザインターフェースを提供できたのは,アプリケーションのデザインをミステリを解くかのように扱ったということだろう.つまり,パズルの足りないピースを見つけ出すように,アプリケーションに足りない機能をただ付け足すのではなく,ユーザがどのようにアプリケーションを使うのか,というストーリーを洗い出し,その筋道をスムーズに通り抜けられるようデザインするということだ.

ペルソナ手法としてのデザインプロセスは,市場調査を行い,データからモニタのプロファイリングを行い,ターゲットを絞り込んで,仮説を立ててその行動を詳細に予想し記述する.まるで何かミステリを解いているような気がしてこないだろうか?

2008/09/08

美的生活のすすめ


同志社大学京田辺キャンパスで行われた日本認知科学会の二日目は,「美的生活のすすめ」と題して,華道家の笹岡隆甫さんの講演が行われた.認知科学と華道がどう結びつくのだろうか,という疑問はあったが,そんな疑問は終わってみれば全く必要もなく,とても実りある講演であった.

華道ということについて自分は何一つ知らないし,家で花を生けるなんて粋な趣味は持ち合わせていない.しかし,講演を聴いているうちに,花を愛で,花で遊ぶという生活をとても「うらやましい」と感じた.

華道にもいくつかテクニックがあって,それを笹岡さんは実演を交えて説明してくれた.まず花はアシンメトリー(非対称)に生けること.花で三角形をつくると,空間に広がりができてよいようだ.まるで絵画における構図の理論のようでもあるが,絵画と違って,生けている場所の空間と時間を包み込むような,そのような自由度(あるいは制約)が華道にはあるようだ.

「花は蕾み勝ちに生けよ」という教えも笹岡さんが教えてくれた.咲ききった花を生けず,蕾を生けることで,生け花に「時間」を含ませているという考えからであった.花を愛でるその刹那の中に永遠(小宇宙)を見せるのが,生け花の本質であるようだ.

「ブーケは花を足し算して絨毯を作るけれども,生け花は引き算して空間(時間)を作る」ということもおっしゃられていた.そのように語ることの底には,観る側への無根拠な信頼が横たわっているのだろう.ヒトには美しく生きることへの欲求があり,想像力を働かせることができる.そう信じることができることが,自分にとっては「うらやましい」という嫉妬の感情を呼び起こすのだろう.

2008/08/31

認知科学会発表用ポスター


同志社大学で行われるjcss2008でのポスターセッション用に作成した研究発表ポスター.

AXISネタ


学生の頃,ネタで作ったもの.
あの頃はムチャクチャに忙しいとか言いながら,こういうアホなモノを作る時間だけは会ったのだと,しみじみと感じている.

2008/08/20

ペーパープロトタイピング入門


会社で毎週1回開かれる講座を受講していて,今回の題目が「ペーパープロトタイピング」であった.
ペーパープロトタイピングという言葉は知っていたし,どういうことをするのかについてはyoutubeで検索して一通り眺めていたので,概要は掴んでいた.しかし,実際に手を動かしてペーパープロトタイピングを体験したのは今回が始めてであった.3人一組になって,ああでもない,こうでもないと工作を行ってみると,少しずつではあるがペーパープロトタイピングの本質的な面白さというものが掴めてきた.

何が面白いのかについて,それは単純明快だ.ペーパープロトタイピングは,コミュニケーションを促す装置であるということだ.その効能は恐らくブレインストーミングと同等のものだろう.つまり,工作をしている間はどのメンバーも基本的に失敗を恐れない.そしてどのメンバーも思いついたアイデアを素早く形にして,他のメンバーと共有する.しかもペーパープロトタイピングという方法自体がユーザを巻き込んだものとなっている.

これらの特徴によってペーパープロトタイピングは,デザインの善し悪しの決定をする方法というより,デザインの場作りをする方法という方が近いのではないだろうか.

2008/07/21

真夏のリアリズム















天国と地獄(1963).
黒澤明監督作品.

僕が東京に引っ越してから1ヶ月くらいのとき,「ちょっと日帰りで遊びにいくか」と思い立ち,ふらっと赴いたのが江ノ島だった.「天国と地獄」にも江ノ島が映っていて,奇妙な共感を得た.

役者は皆さんうまい.だけど僕が「うまい」と唸ったのは寧ろ名脇役達だった.聴き込みに来た刑事に対して,江の電についてべらべらと喋る乗務員さんや,煙突から桃色の煙が出てきたときに,焼却場で聴き込みした火夫さん,脇役のリアリティとユーモアが光っていた.

刑事らが捜査会議している場面で,タオルでシャツの中を拭ったり,扇風機が回ってたりしてむさ苦しさをひしひしと感じたけれど,撮影は冬場だったようだ.

『なぜ真夏のシーンを真冬に撮影するのかと山崎努が黒澤に訊ねると「夏は暑いのでつい安心してしまう。冬に夏のシーンを撮影すれば、どうやって暑く見せようかみんな工夫するだろう」と答えたという』(wikipedia 天国と地獄(映画)より抜粋)

こういう黒澤監督だけど,真夏であるはずの富士山の冠雪だけは,どうにもならなかったみたいだ.

台本は現場で変化し続ける



















シャイニング(1980).
スタンリー・キューブリック監督作品.

高校2年の頃,ビデオを借りて観た記憶がある.
今回借りたのはDVDで,本編の他にメイキング映像が収録されていた.メイキング映像なのに,映画の緊張感がそのまま感じ取れたのが印象的だった.

メイキング映像で,映画の台本に関する話題が昇っていた.
台本は最初から決められたものではなく,バージョンがいくつもあり,それを色付きのページで区別していたようだ.
「初めの台本は使わない.毎日変わるんだからね」
主演ジャック・ニコルソンの言葉である.

台本は現場で変化し続ける.台本を基に演じる俳優もまた現場で変化し続ける.それがプロフェッショナルなのだろう.
そして,変化する現場を創り出し,制御するキューブリック監督も,またプロフェッショナルだな,と感じた.