2009/03/31

テオ・ヤンセン


テオ・ヤンセン展

展示されているのは,プラスチックのパイプによって構成された生命.

「もし,現存している生命のようなエネルギー代謝の機構を持たず,風をエネルギーとする生命が現れたとしたら?」という仮定から,彼の着想はスタートしている.

展示されている構成物は,その多くは過酷な環境(強風や豪雨)に耐えきれず,命を失ったものであり,実際に動くことが可能なのは二体のみ.

そのうちの一体は,自分が移動するためのエネルギーを蓄えることができる.
風を大きな羽で受け止め,その風力により自転車のタイヤに空気を入れる要領でポンプで空気を圧縮させて,ペットボトルに空気を詰め込む.そして蓄えた圧力でタービンを回して何十本もの足を動かす.


ここの展示が何よりも面白いのは,彼の信条,生命観から顕われる独特の雰囲気だ.
彼は一度作り上げた構成物は,環境に晒されて破壊してしまうと修理はせず,「生命の死」として受け入れる.展示されたほとんどの生命は「死んでいる」し,死んでしまった構成物は「化石」として展示されている.

だから展示されている場所は,他の美術展のホワイトボックスのような無味乾燥な空間ではなく,化石の発掘現場のような独特の雰囲気をたたえている.


展示場所は日比谷パティオ特別会場.4月12日まで.

2009/03/14

Belberry

Belberry」.
東京ミッドタウンにあるお店.



パパナッシュプレートなるものを食べた.

「パパナッシュ」って見た感じドーナツ.
味はドーナツに少しチーズの酸味がかった感じ.

2009/03/05

R-D1


最近,カメラを買った.

購入したのはEPSONが2004年に発表した R-D1 というカメラ.

レンジファインダー式のデジタルカメラという異色の存在で,
現在,ライカのM8 ,R-D1の後継機種のR-D1sとR-D1の,
三機種のみが市場に出回っている.

コンデジも一眼レフも進化が速いから,
趣味で買うならニッチなものを,という選択だった.

ちょうど Yahoo! オークションで競売にかけられていたものを落札し,
(ネットオークションで落札したのはこれが初体験だった)
R-D1を購入したはいいが,レンズがない.

レンズはオークションでは品質が担保できないと考え,
新宿・中古カメラ市場に出向いてレンズを購入した.

レンズを選ぶ条件として,以下の五つの条件があった.
  • Mマウントであること
  • 標準レンズであること
  • f 値が小さいこと
  • R-D1のデザインに合うこと
  • 割と安いこと
五つの条件が完璧にマッチするレンズは,僕の拙い眼力でも一つしかなかった.

ミノルタの M-ROKKOR 40mm f2.0 .


このレンズを買ったその日に,長野の雪山のペンションに向かった.
写真はそのときのものである.

2008/10/17

コーディノロジスト


以下,河本英夫氏の宿命反転に関する用語解説.
宿命反転 Reversible Destiny

不可能と思われているものを留保し,留保された位置から,可能性の広がりを考察すること.たとえばこれまで人間は,必ず死ぬものだと思われてきており,また事実死んできたが,ひょっとして人間は死なないのだということまで予定に入れることができれば,これまでの通念とは異なる範囲で,可能性の幅,あるいは選択肢を考えざるをえなくなる.可能性をできるだけ広く取るために設定される,方向付けのための原理である.かりに人間の経験の可能性に向けて,無限の試みが続けば,すでに宿命反転は現実化の段階に入っている.

2008/09/24

三渓園



三渓園は横浜市中区本牧(ほんもく)にある庭園.

三渓園は,横浜トリエンナーレ2008の会場の一つであり,その展示を見ることが今回訪れた本来の目的だった.他の会場は二日間見て回り,最後に三渓園を訪れた.この三渓園は他の会場から遠く離れ,桜木町からバスで25分以上かかる場所にあり,行くのには少し難儀だった.ただ,本来ならば入場料500円がかかるところを,トリエンナーレのチケットで入場することができたことが少しオトクだった.

正直に言って僕は現代アートに造詣が深いわけではないし,今回のトリエンナーレを見て,現代アートにはかなり懐疑的な感想を持っていたので,三渓園には「庭園を楽しむことができて,ついでに作品も見られればいいや」という心持ちで臨んだ.

トリエンナーレの展示はそこそこに拝見して(というかほぼ素通りして),三渓園の建物や景観をゆっくりと見て回った.建物の多くが鎌倉や京都からの移築で,建立が室町時代のものもあり,「古都」の趣を感じた.ただ単純に移築したという感じはしなくて,景観と建物が非常にうまく調和していた.

この庭園を公開したのは原三渓(1868-1939)という横浜の実業家.古美術の蒐集家だったようだが,ただの金持ちというわけでは全くなく,自身も書画に親しんだようで,展示室には彼の作品も公開されていた.さらに当時の画家を庇護して育成に努めるなど,パトロン的な存在だったようだ.関東大震災の際には横浜の復興のために私財を投じた徳の高い人でもあった.

トリエンナーレで最もリスペクトに値するアーティストは実は原三渓だったのかもしれないな,というのも皮肉な話だ.

2008/09/14

ミステリとパズル


ソシオメディア株式会社主催のDESIGN IT!フォーラム(副題:インタラクションデザインの現在と未来 )に参加する機会があった.

adaptive path社のインタラクションデザイナーであるダン・サファー氏が講演者として招かれ,いくつかの興味深い講演を行った.

その講演の中で述べたことに次のような一説がある.
「良いデザインプロセスと悪いデザインプロセスの違いを理解するために,ミステリとパズルというメタファーを用いることができる.パズルには解法が一つしかない.パズルが解けないのは,パズルのピースが足りないと考える. ミステリは解法が複数ある.ミステリが解けないのは,情報が整理されていない状態であると考える.デザインはミステリを解くかのように行わなくてはならない」
この一説がどこかからの引用なのか,それともダン・サファー氏の自説なのかは定かではないが,とても記憶に残る言い回しだった.

ダン・サファー氏は難解なミステリを解くことに成功した一つの例として,最も有名なアプリケーションの一つである「Microsoft Word」を取り上げていた.

1989年に出荷した「Word 1.0」では,コマンド数は100個,ツールバーの数は2本というシンプルなものであったが,ユーザの要求によって機能追加が進み,Word 2003 ではコマンド数1500個,ツールバーの数31本という数にまで膨れ上がった.機能が追加されていっても,ユーザインターフェースがほとんど変更されなかったために,ユーザは利用したい機能に辿り着くまでにいくつものツールバーを表示させ,プルダウンから探さなければならない羽目になった.

当然のことながら次期バージョンのUIチームは,このまま機能追加を続けていけば更に事態を悪化させることに気づいていた.そのためUIチームは,ユーザインターフェースの大幅な見直しが必要であることを上層部に掛け合い,承認させた.

彼らUIチームの仕事が結実したものとして,従来のメニューを廃し,リボンインターフェースを採用したことが最も大きいものだろう.そのほかにも「ライブ・プレビュー機能」,「コンテキスト・タブ」などがある.クラシックモード(旧バージョンのユーザインターフェースに切り替えるモード)の切り捨ても戦略的な英断だった.

彼らがそのような過去を見直し,新しいユーザインターフェースを提供できたのは,アプリケーションのデザインをミステリを解くかのように扱ったということだろう.つまり,パズルの足りないピースを見つけ出すように,アプリケーションに足りない機能をただ付け足すのではなく,ユーザがどのようにアプリケーションを使うのか,というストーリーを洗い出し,その筋道をスムーズに通り抜けられるようデザインするということだ.

ペルソナ手法としてのデザインプロセスは,市場調査を行い,データからモニタのプロファイリングを行い,ターゲットを絞り込んで,仮説を立ててその行動を詳細に予想し記述する.まるで何かミステリを解いているような気がしてこないだろうか?

2008/09/08

美的生活のすすめ


同志社大学京田辺キャンパスで行われた日本認知科学会の二日目は,「美的生活のすすめ」と題して,華道家の笹岡隆甫さんの講演が行われた.認知科学と華道がどう結びつくのだろうか,という疑問はあったが,そんな疑問は終わってみれば全く必要もなく,とても実りある講演であった.

華道ということについて自分は何一つ知らないし,家で花を生けるなんて粋な趣味は持ち合わせていない.しかし,講演を聴いているうちに,花を愛で,花で遊ぶという生活をとても「うらやましい」と感じた.

華道にもいくつかテクニックがあって,それを笹岡さんは実演を交えて説明してくれた.まず花はアシンメトリー(非対称)に生けること.花で三角形をつくると,空間に広がりができてよいようだ.まるで絵画における構図の理論のようでもあるが,絵画と違って,生けている場所の空間と時間を包み込むような,そのような自由度(あるいは制約)が華道にはあるようだ.

「花は蕾み勝ちに生けよ」という教えも笹岡さんが教えてくれた.咲ききった花を生けず,蕾を生けることで,生け花に「時間」を含ませているという考えからであった.花を愛でるその刹那の中に永遠(小宇宙)を見せるのが,生け花の本質であるようだ.

「ブーケは花を足し算して絨毯を作るけれども,生け花は引き算して空間(時間)を作る」ということもおっしゃられていた.そのように語ることの底には,観る側への無根拠な信頼が横たわっているのだろう.ヒトには美しく生きることへの欲求があり,想像力を働かせることができる.そう信じることができることが,自分にとっては「うらやましい」という嫉妬の感情を呼び起こすのだろう.